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互いに学び合い、和して同せず――日本学士会における王毅大使のスピーチ

(2005年2月18日)

 このたび、「日本学士会」から特別賞を賜り、たいへん嬉しく存じます。これは「日本学士会」が初めて外国の大使に授賞することになると聞いておりますが、誠に光栄に存じる次第であります。また、今回の授賞は私個人に与える名誉だけではなく、貴会の皆さんが中国国民への友好の誼と中日関係発展へのご期待を表すものであり、さらに貴会が日本の重要な学術団体として国境を超えて、本地域ひいては世界を視野に入れての選択であると受けとめてあります。グローバル化と情報化が急速に進み、各国間の結び付きと相互依存がますます深まる中、「日本学士会」の皆さんが時代と共に進み、より一層アジア、そして世界に関心をもち、日本ひいては地域と人類の進歩のために、積極的な役割を果たしていることに敬意を申し上げたいと思います。

 私は去年9月に、駐日本国大使として着任しました。世界各国の大使はそれぞれ個性が異なりますが、その役目に大きな共通点もあります。それは駐在国と本国をつなげる架け橋と絆となることでしょう。私の場合について言えば、最も主な仕事は日本各界の方々に中国のことをより正確に説明し、同時に日本のことを中国に全面的に紹介して、それでもって両国民の相互理解の増進、協力関係の強化、共通利益の拡大を図ります。両国関係の発展が両国民に幸せをもたらし、アジアと世界の平和と繁栄にも寄与できるよう努力することであります。

 中日関係は中国にとって、最も重要な二国間関係の一つであり、独特の二国間関係でもあります。両国の間に、文字の記載のある交流だけでも、二千年以上綿々と続いております。これは世界史にも希に見ることであり、ほかのどの二国間関係も比べになりません。長きにわたる交流の中で、両国は数々の有益な経験を蓄積し、多くの優れた伝統を作り上げました。その中で、たいへん重要な伝統の一つとしては、両国が互いに学びあい、長所を取り入れ、短所を補い、それぞれの発展を促してきたことであります。

 古代から明治維新まで、どちらと言えば、日本が中国のことをもっと学び、参考にする時期でした。当時においては、中国の成熟した官僚体制、効果的な行政管理制度、進んだ農耕文化、発達した漢字システム、優れた人文哲学並びに文学芸術、宗教などが日本の参考の対象となっていました。「大化の革新」後、日本が打ち出した律令制度などは中国唐の時代の制度と一脈相通じるものでした。その時の宮廷儀礼も、中国の「唐礼」をベースにして作られたと言われています。京都、奈良など大都市の街づくりの設計や配置も、大抵中国の長安を参考して作っております。当時の文章も殆ど漢文で、例えば聖徳太子が公布した17条の憲法も全部漢字でした。日本最初の学校寺子屋から幕府時代の藩校までの教材は、中国の古典を取り入れ、中国の「論語」や唐詩は時の上流社会で広く知られております。日本最初の長篇小説「源氏物語」は、唐の詩人白楽天の詩を90箇所あまりも引用しました。要するに、古代は中日友好交流が絶えず発展し、実り豊かな成果をあげた時期であり、中国の文化が大量に日本に入る時期でもありました。

 その過程において、中国に派遣された遣隋使と遣唐使は重要な役割を果たしました。7世紀から9世紀までの200年あまりの間に、日本は中国に遣隋使と遣唐使を約20回派遣し、一番多いときは一回で600人もいました。両国交流の中で、阿倍仲麻呂や鑑真和上などのような優れた人物が続出しており、これは中国とその他の国の交流の中でそれほど多くありません。

 阿倍仲麻呂は中国文化を懸命に研鑚し、時の大詩人李白、王維との間に厚い友情を結びました。また、中国の科挙試験にも成功して、唐王朝の高官まで出世し、最後に中国で客死されております。

 鑑真和上は12年間に渡り日本への渡航を続け、70数回の艱難困苦を経て、目も見えなくなり、ついに日本の地に辿り着きました。日本の朝廷から僧尼(そうに)の身分を認定され、戒壇を設置しました。鑑真和上が持ってきた仏教経典及び行った布教活動は、日本の仏教文化の発展に重要な貢献をしました。また、弟子たちと一緒に建てられた唐招提寺は今でも中日友好のシンボルとなっています。鑑真和上は生涯をかけて、両国国民の友情の花を培い、中日友好交流史にも不滅の一ページを書き記しました。

 ここで、つい最近発見されたもう一方の遣唐使のことに触れたいと思います。彼の中国名は井真成と言いますが、昨年の秋、中国の西安で唐の時代の墓誌が発掘され、その上に彼のことが刻まれております。彼は、19歳の時に阿倍仲麻呂と一緒に長安に行き、たいへん風格が立派で、才能に溢れ、勉学に励む青年でしたが、残念なことに36歳の若さでなくなりました。時の玄宗皇帝から手厚く葬られ、さらに尚衣奉御の官が追贈されました。日本有名な画伯の平山郁夫先生がこのことを聞いて、一若い日本人が唐王朝からこれだけ厚遇を受けたことは、時の中国政府と国民の日本国民への友情の印であると感激されています。中日双方の努力により、この墓誌が今年の五月に日本で展示されることになっております。墓誌には「形既埋於異土、魂庶帰於故郷(この身は異国に埋むれども、魂は故郷に帰らんことを願う)」と書いてありますが、この言葉も1200年を経て、やっと実現される運びとなるわけであります。

 さて、明治維新から20世紀の初めまではどちらかと言えば、中国が日本のことをもっと学び、参考にする時期でした。その間に、日本は国内改革によって近代化の道を歩み始めたが、当時の中国は様々な原因で、引き続き鎖国政策を取り、ますます遅れてしまいました。こうした背景の下で、19世紀末から、中国の大勢の知識人が日本に入り、最初はわずか13人でしたが、一番多いときは年間1万人にものぼりました。彼らが日本にきたのは、一つ目は、日本という窓口を通じて世界を観察し、知ること。二つ目は、日本から西側諸国の先進的科学技術を取り入れること。三つ目は、日本の近代化の経験を参考にして、国や民を救う道を探求するためでした。当時中国の憲政改革は、最初に日本をモデルに選んだのです。中国の多くの先覚者たち例えば周恩来、郭沫若、りょう承志などは、みんな日本で留学しております。20世紀の初め頃には、日本が中国のいろんな分野に影響を及し、外国文化を吸収する主な導入先であったと言っても、過言ではありません。統計によると、20世紀最初の十年間に、中国が海外から翻訳した作品が533種類あり、そのうち日本語から訳されたのは60%以上を占めていました。近代的科学技術や、先進的文化芸術も日本を通じて中国に伝わったものは少なくありません。中国の近代用語、特に政治、経済の分野において、相当日本の漢語から取り入れており、中国の漢字ができて数千年来、最も変化の激しい時期となりました。例えば、法律、思想、原則、政策、そして物理、化学、数学などが挙げられます。

 また、当時の中国は日本語の書物を通じて、フランス大革命やルッソーの「社会契約論」など西側の近代政治思想や学説を吸収し、社会主義と共産主義の思想も日本を経由して、中国に伝わってきました。中国の近代革命の先駆者孫文氏は、15回も日本に渡航して、日本で中国同盟会などの革命団体を創立し、日本が彼らの重要な海外基地となっていました。

 最も、中日二千年以上の交流史の中に、不幸な時期もありました。日本が一時西側列強のまねをして、誤った国策により、対外拡張の道を歩み、中国を含めた周辺諸国及びに日本自身に大きな害を与えました。 

 今日になって、中日両国が置かれている内外環境は大きく変化しております。人類が21世紀に入ってから、グローバル化と情報化が日増しに進み、世界各地域が域内協力を強化し、グローバル化によるチャレンジに立ち向かっています。われわれがいるアジアはどうするのか?中日がアジアにおける二つの重要な国として、そのためにどんな責任を負うべきか?これに対して、アジア全体だけではなく、世界の多くの国々も注目しています。新しい情勢を前にして、私たち双方は両国交流の優れた伝統を受け継いで、それぞれの強みを生かし、今までのパターンから一歩進んで、互いに学びあい、手を携えて、地域協力を強化し、アジアの時代を切り開き、東方文化を振興していくべきではないでしょうか。

 東方文化はかつて数千年に渡って世界の先頭に立ち、人類の文明史上において独特な地位をもっていましたが、近代に入ってから、西洋文化に後から追い越されました。最近の半世紀以来、東アジアの人々は刻苦奮闘して、再び世界を驚かせる発展の奇跡を作り出しました。東方文化は数千年の発展と蓄積を経て、広大で奥が深く、厚い学殖を持っています。早くも2000年前に、東方の人はすでに「天人合一」との理念を提出し、つまり、人の言行が天の意志とおのずと調和できて、渾然一体となることを強調しております。それは今になっても、われわれにとって、大きな啓発となるでしょう。

 中日両国の文化は共に東方文化の重要な部分であり、それぞれ東方文化の形成と発展に重要な貢献をしました。両国の文化には共通するところもあれば、異なるところもあります。同じ儒教の影響を受けて出来上がった二つの大きな文化体系として、私たちはともに「和」の精神を重視し、「和」の地位と役割を強調しています。日本の聖徳太子が公布した「17条憲法」の第一条は、「和を貴しと為す」であります。これも中国の古代文化の最も重要な理念の一つであります。現在中国は独立自主の平和外交政策を実行し、平和且つ安定的な周辺環境作りに力を入れていることも、この「和」の理念とつながりがあるでしょう。「和」というものは心に求められる精神であります。「和」の精神を広げますと、協力を大事にすることであります。即ち、協力を通じて平和を守り、協力を通じて発展を促し、協力を通じて問題を解決し、協力を通じて共に未来を切り開いていきます。

 「和」を追い求めると同時に、われわれは「和して同せず」をも提唱しています。「同せず」とは「和」を保ちますと同時に、自分の特色をも生かします。「和して同せず」は弁証的な発想方式であり、要するに、調和を強調しながら千篇一律にしない、お互いの違いを尊重しながら衝突を起こさない、調和を持ってともに成長し、違いを持って互いに補い合うということであります。言い換えれば、平等と包容の精神に基づき、違う文明が仲良く共存し、共同発展と共同繁栄を求めることであります。

 「和」への追求から「和して同せず」に至り、さらに「協力と調和」へ発展し、延長するのは、私たち両国文化の主な共通点であり、東方文化の真髄でもあります。この発想は古代哲学者の「人間と自然の関係」に対する深い考えによるものであり、時空を越える素晴らしい価値と意義を持っています。この発想を中日関係に当てますと、即ちお互いに尊重し、理解を深め、約束を守り、言動を一致させることであります。この発想をアジアの振興に当てますと、即ちすべての国が平等で、互恵協力して、共同発展を目指すことであります。さらにこの発想を人類文明の促進に当てますと、即ち各国の発展モデルの多様化を尊重し、国際関係の民主化を求め、公平且つ合理的な国際新秩序を確立することでありましょう。

 ご清聴ありがとうございました。

 



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